第三章 ナラティブ・アンド・カルキュレーション

 ……以上ふたつの断片が我々があらかじめ保有していたテキストのすべてだ。「むかしむかしあるところに」ということばがよく似合う寓話的な設定ではあるものの、いまのところそれは我々によって否定されており、すくなくとも「過去に話された現在の断片」という位置付けがなされていて、それは物理的時間の前後を意味するわけではない。ここでは未来さえ過去でありえるが、いまのところ「ここ」は一意的に決まらない。

 語ることにより時間が進められ、寓意が結晶化し、ドロはその隠喩性を打ち捨てる。我々がこの物語に時間と全体性を与えるならば、このようなテキストが続くだろう––––

 

 赤い目の輝きが消えゆく刹那に少女が見たのはそのようなものだった。とらえたのはふたつのつぶらな瞳だったが、それは映像とは言い難いもので、彼女のやわらかな頭蓋のなかで具体的な像は結ばない。「やつ」の身体の一部だった泥の飛沫が、明日の朝には乾いてしまう生暖かさで少女の頰についた。

「名前は?」

 男は繰り返した。かれの手の中で筒の先端が鈍い赤色で最後の叫びをあげるかのように光って消えた。

「ウォル、ター……?」

 そのか弱い発声に、男は目を丸くする。

「もう一度言ってみろ」

 彼は少女の両肩をつかんでゆすった。少女はうわごとのように、同じ名前をくりかえし、やがて声は意識とともに消えた。

 

 ––––断片が強制的に接続されることにより無数にあった任意性はたちまち奪われるが、しかし未だおびただしい数の可能性が不可視の眼前に横たわっている。過去にも未来にも「現在」は不在だ。

「ならば」とひとりが声をあげる。「物語を現在に結晶化させればよいのである」

 かれが着目したのは物理的時間とテクスト的時間の差異だ。時間というものは座標軸に沿って前進することしかできないが、しかしこ両者においてはそれぞれの座標軸の取り方が決定的にちがう。前者はこの宇宙の物理法則に従うのに対し、後者は著者なる存在の筆を絶対としそれはなんらかの物理変数を引数とする関数としては表現されない。

 ともかく「現在」の話をするならば、我々はドロも大陸も持ち合わせていない。それは「現実」を定義する術を持たないからだとかれはいうだろう。白状するならば、「かれ」というのはこの物語自身のことであり、そして我々もまた物語であり、アイデンティティの危機に瀕しているとでもいえばこの独りよがりな切実さをすこしはわかっていただけるのではないだろうか。ドロの海と液状化する大陸に物語的人格を与えるためには、まずその海と大陸を我々は取り戻さねばならない。

「少女はそのために生み落とされた」

「我々の感覚器として」

「過去と未来を接続する文法として」

「現在を見出す希望として」

 そして我々の筆は前方へ向けて伸びていく––––

 

––––ドロ【名詞:doro】

「最悪のあの日」を特異点として世界に致命的な変革をもたらした。大陸を貪り、海に流れ込むことでその規模を広げていき、その生体的挙動は人々にカフカ的不条理な世界を直視させる。それは視覚的に「死」を想起させるのだが、生きるためにそれを除去する労働に徹することにより、人々は「死」に対する感覚を麻痺させ、わずかながらの食物を得ることができる。かつて大陸に栄えた文明はことごとく崩壊しあらゆる職業が消え去ったが、ドロの世界侵食があらたな職をもたらした。人類史上で例をみないラッダイトであり、産業革命である。

 

––––ダイヤル【名詞:dáiəl

「筒」に取り付けられた対ドロ用の対策装置。一般に「筒」と呼ばれるもののパーツとして認識されているが、厳密にはダイアルが筒のかたちをしているものである。

意思を顕在化させたドロが特定の状態になったときに捕獲可能となるが、先行するテキスト世界においてはまだ「朝」「夕」の2パターンの攻略にとどまっている。また、ドロの状態を科学的に検知する手法はまだ確立されておらず、【オートフォーカス機能】の実装が急務とされている。

 

 ––––吐き出された上記のテキストを受けて、テクスト的時間はさらに前進を続ける。

 

【Re:少女の物語】

 大きな音が響く。木製のベッドがいまにも壊れそうな音を立てて軋む。大地は揺れる。怒っているように、笑っているように、泣いているように。そしていまは大地だけじゃない。空が声なき声をあげる。それが恋に近いことを無垢な少女はまだ知らない。衣擦れの音が妙に耳に残った。

 目を覚ましたとき、傍らには男がいた。かれは彼女が目を覚ましたことに気づいていないのか無関心なのか、身じろぎひとつせずひざに乗せた本に目を落としていた。なんの本なのかわからない。そもそも少女はそれが本だということもわかっていない。ドロの中でたまに見つけるそれは、タロイモ7つぶんの価値になるということだけを知っている。しかし彼女が知っているのはそのことだけじゃない。そういう感覚が自分のなかに消し難く穿たれている感触はあるけれども、それを言語化する術を知らない。光の中で見る風景はいつも、どこか懐かしいもので、倒れた後はいつも涙が流れるが、その理由は分からなかった。少女は泣いていた。

 男はそれからたっぷり5分ほどそのままの姿勢を保ち、それからぱたんと音を立てて本を閉じた。そして少女の名前を呼んだ。

「雨は降っているか?」

 少女は窓の外を見る。降っていなかった。

「空はどれだけ落ちているか?」

少女は目を細めて空を見る。落ちてなどいなかった。黄土色の分厚い雲が渦巻いているだけだった。

「動けるか?」

 少女は頷いた。そうか、といって男はひび割れたタイルの上をひたひたと歩き、台所へいくと、まもなくジャガイモ3個を皿に乗せて彼女に差し出した。少女はそれにすぐさま食らいつくと、途中三度むせて咳き込んだが、あっという間にたいらげた。

「今日はドロ運びはやらなくていい」男は皿を回収するとそういった。「代わりに連れて行きたい場所がある」

 男は少女を助手席に乗せ、車を走らせた。向かった先はほとんどドロに飲み込まれた海とは反対側の、しかしドロ収集所の方向とも違った。黄土色に渦巻く空からは時折ドロの飛沫が降ってきてフロントガラスに付着し、ワイパーで振り払うとまるで血痕のようなかすれた痕が残った。

 途中、少女のねぐらにほど近い道を通った。たくさんの少年と少女がこの日も休みなくうつむきがちにドロを運んでいた。ひとりの少年がふと立ち止まり、助手席に座る彼女の方を見ていた。彼女も見ていた。かれは二人分のバケツを両手に持っていて、しかしいま自分が何をしているのかを把握していない、あるいはこれまでに一度も考えたことがないというような白痴的な表情を浮かべながらじっと車を、助手席に座る少女を見つめていた。少女もかれの方へ視線を向けたのだが、それらが交わることを拒むように車はあらゆる風景に対し無関心にスピードを落とすことも上げることもなく、無機質に通り過ぎて行った。男はなにもしゃべらなかった。

 流れる風景のなか、少女の目に突然見知らぬ光景が飛び込んでくる––––ぬるく、鈍いぼやけた視界のなかで緩慢に上昇する気泡––––赤い光のなかで足を震わせながら筒を片手に獣じみた声を上げる男––––隊列を作り、機械のように整然と巨大な建物に入っていく少年少女––––そして雲の切れ間から光り輝く太陽が覗いたかと思えば、はるか上空より落下し突如として視界はブラックアウトする。うっ、と少女は細かい声を上げると、世界は元に戻っている。

 視界は開けていた。はるか遠くの海で赤い光が一直線に少女の目を貫く。ドロが蠢いて、人のかたちをして立ち上がろうとしていたが、すぐさま波に飲まれて消え去った。赤い光がわずかに遅れて消えた。

「着いたぞ」

 ふたりが降り立った巨大な建物には「リチャード・ホプキンス研究所」と書かれていた。少女にはその文字を読めなかった。

 

続く[3274文字]