第二章 リチャード・ホプキンス

大きな音が響く、木製のベッドがいまにも壊れそうな音を立ててきしむ。いつものことだ。私達を叩き起こすように毎朝、大地は揺れるのだ。怒っているように、笑っているように、泣いているように、揺れるのだ。

毛布を追いやるように足で蹴り、洗面所へ向かう。白いタイルの洗面所の壁は至る所に亀裂が走っている。雑に補修された亀裂はそれ自体が生き物のようだ。それは揺れる大地と共鳴して、怒っているように見える、笑っているように見える、泣いているようにも、見える。動物の荒い毛がついたブラシで歯をこする。いつまで経っても錆びた水しか出ない水道にはもう慣れた。はじめからそういう色だったのか、うすいベージュのゴワゴワした布を顔に当てながら、外を見る。いつもと変わらない景色だ。履き潰したブーツの中にいるような、腐ったピザを敷き詰めたような、大切な手紙に珈琲をこぼしたような、景色。ただ、空だけが、青い。

一本の細い鉄の棒を抜き、窓を開ける。

「相変わらずひどい匂いだ」

いつものことだ。排水溝の奥のような、洗っていない犬のような、化学薬品の工場のような、鼻孔が嫌がる匂い。

いくつかイモが置かれたリビングのテーブル、二脚ある椅子のひとつにかけてあるジャケットの袖口に付いた土をはらい、太い腕を通す。壁際の散らかった机には割れたディスプレイ、くしゃくしゃに丸められた無数の紙、その上に無造作に置かれた銀色の筒から伸びたコードを引きちぎるように抜く。銀色の筒の下にはところどころが黒く汚れた手紙があって、こう書かれていた。


ウォルターへ

この手紙はきっと君には届かないだろう。
君がどこで何をしているか知らないし、探すつもりもない。
この手紙は私が死んでもずっとここにあるだろう。
これは自分に向けた手紙なのかもしれない。
あるいはただの日記なのかもしれない。

あの日、最悪のあの日からもう40年が経つ。
この土地に残った関係者は、ついに私だけになってしまった。
私たちは加害者だ、あの時、あの場所で、知識や技術があったものは一人残らず加害者だ、そして私たちは同時に奴隷でもあった。理解できないものを、理解したフリをして、理解できないまま進めるべきではなかった。少なくとも私達のような者は、例え地下のオフィスに閉じ込められようと、戦い続けるべきだった。例え殺されようと、叫び続けるべきだったのだ。
聞こえるかウォルター、ずっと地震が続いている。毎日だ。
液状化した大地はこの家のすぐ近くまでを海にした。ドロの海だ。汚染された土が川の水と混ざり、辺り一面がドロの海となった。昔、君が結婚式でプールに投げ入れたチョコレートケーキを覚えているか、私はまるで昨日の事のように覚えている。結婚式も、あの日の事も。
地中のタンクはすべて壊れてしまっただろう。今となっては確認することも難しいが。

もうマスクをする者は誰もいない。
男も女も、子供だって毎日ドロを運んでいる。
永遠に無くなる事のないドロを。

君は覚えているだろうか、いや、読んですらいないかもしれないな。前に手紙を書いた時、私はドロが動いているかもしれないと書いた。どうやらそれは私の見間違いではなさそうだ。最近では私達よりずっと人間らしく動いていて、まるで意思があるようだ。
やつらは人を襲う。花のように。

私にはやつらが何なのか、理解できない。
襲われたところで私達は汚れるだけだ。
やつらは襲っているのではなく、抱き締めてほしいだけなのかもしれない。

どちらにしろ、動くせいで回収が難しくなった。
ウィリアムが作ったバキュームがなければ、誰もやつらを回収することはできないだろう。そのウィリアムも四年前に逝ってしまった。きちんとした使い方も説明しないまま。

ダイヤルってやつが厄介だ。
これを間違うと、やつらを吸うことすら出来ない。
このダイヤルを使いこなすには、ドロの性質を完璧に把握していないと無理だろう。
皮肉なものだな、核を扱っていた私達が、ドロなんかに手こずるなんて。
しばらくしたら、この筒を使いこなせるようなやつを探すつもりだ。
理屈が邪魔をしない子供の方が向いているかもしれない。

リチャード・ホプキンス

 

出窓に置かれた何も生えていない鉢、その横にある木製の写真立て、アクリル越しに微笑む女にかぶった埃を親指で払い、その親指で筒についたボタンを押す。ファンが回転するような音と共に、開口部が青白く光り、ズシリと重くなる筒、その構造は男には分からなかった。筒はこれを入れて三台、うまく使いこなせれば、一日に一トン近いドロを回収することができる計算だった。

「さて、と」

革の鞄に銀色の筒を放り込むと、汚れた長靴に足を突っ込みドアを開ける。爽やかな光が男を黒くする。ハッチを開き、革の鞄を投げ入れる。キーを回す。一度でエンジンがかからない。

いつものことだ。

四度目で体の土を振り落とすように、車体が震える。

いつものことだ。

あの道を右に曲がると、何十年と毎日見続けても、絶対に見慣れることのない景色が広がっているのも、いつものことだ。

しばらく走ると、橋が見える。橋の手前に車を停め、ハッチを開ける。革の鞄を肩から下げ、斜面を降りる。至る所でなにかが蠢いている。何人かは人かもしれない。しかしそのほとんどがドロだろう。汚染された人間が作り出した、汚染されたドロだろう。鞄から銀色の筒を取り出し、ボタンを押す。ファンの回転するような音の後に、開口部が青白く光りだす。ズシリと重くなったことを確認すると同時に、考える。

昨夜、雨が降って路面が濡れていた。いつもよりドロは薄くなっているはずだ。

長い筒を左手で支えツマミを捻る。音の質が変わる。青白い光が僅かに黄色を帯びる。

グジャッ。

筒の先をドロに向け、足を取られながら走り出す。

ドロがこちらに気づき、赤い目がアザミのように変化する。全身が膨張したかと思うと、やがて自らを抱き締めるように収縮し、こちらに向かって走り出す。

赤い光に包まれたかと思うと、男はドロの上に倒れていた。

光の中で見る風景はいつも、どこか懐かしいもので、倒れた後はいつも涙が流れるが、その理由は分からなかった。

「また失敗か」

いつものことだ。

 

続く〔2507文字〕