第一章 ドロ屋の少女

少女が歩いている。両手にバケツをさげ、その中はドロがいっぱいにつまっている。少女はドロをはこんでいた。バケツいっぱいのドロを両手にさげ、ドロ収集所まで歩く。ドロを流すと来た道を戻り、浜辺まで歩く。浜辺に着くと、ドロをくみあげる。バケツ二杯がまんたんになると持ち上げ、浜辺からドロ収集所まで歩く。少女は浜辺とドロ収集所の往復を繰り返していた。収集所にドロを流すと、少女はしるしをもらえる。しるしがたまると、イモと交換してもらえる。少女はドロをはこんで交換したイモを食べ、暮らしていた。

ドロをはこばない日もあった。しるしがたまって余裕のある日、少女はドロをはこばなかった。しかしそれはごく限られた日だった。たいていは毎日ドロをはこんだ。雨の日はドロがうすくなり、はこんでもしるしをもらえなかった。雨の日は少女にとって休日だった。気温が低いと、ドロが固まりバケツにくみあげられなかった。そういう日は気温が上がる時間帯だけドロをはこんだ。天候が悪かったり、体調を崩す日が続くと、何日もドロをはこべなかった。ドロをはこべない日が続くと、少女は少年とイモをわけあった。少年は少女より幼く、一度に一つのバケツしかはこべなかった。少女がドロをはこべない日は少年のイモをわけあい、少年がはこべない日は少女のイモをわけあった。二人ともはこべない日は残りのイモをわけあい、イモが切れると二人とも飢えた。

少女と少年は、ドロの浜辺近くにある洞窟で暮らしていた。その洞窟に住むのは少女と少年だけだった。他の洞窟にはまた別の人たちが住んでいた。洞窟だけでなく、木でできた家に住む人もいた。彼らはみな、少女や少年と同じようにドロをはこんで暮らしていた。何日もドロをはこべない日が続くと、人は浜辺の近くを離れていった。そして少年と少女だけが残った。またドロをはこべる日が続くと、どこかから人が流れてきた。彼らは残された家や空いている洞窟に移り住み、またドロがはこべなくなると消えていった。少女と少年は一度も浜辺を離れることがなく、同じ毎日が続いていた。

収集所にドロを流し、空になったバケツを持って帰る途中、少女は一人の男とすれ違った。背の高い男だった。仕立ての良い服を着て、縦長の帽子をかぶり、襟首には長方形の金属片がついていた。このあたりでは見かけることのない服装だった。収集所の職員は服を着ていたが、少女や少年、それ以外にもドロをはこぶ人たちは頭から布をまとっていた。一日が終わると彼らがまとう布はドロにまみれ、脱いで干しておけば翌朝にはドロが乾いて落ちていた。そしてまた頭から布をまとい、バケツを持って浜辺へ向かう日々を送っていた。

空になったバケツを持ち、浜辺へ戻った少女は、バケツにドロをくみあげ再び収集所まで歩いた。収集所には先ほどすれ違った背の高い男がいた。職員と話している。職員はあたりにいる人を指差し、そして少女の方も指差した。背の高い男はその指を目で追っていた。少女は二人のいる場所を通り過ぎ、バケツから収集所へドロを流していた。バケツが空になると少女は振り向き、浜辺へ向かって歩こうとした。

「おい」

少女は背の高い男に呼びかけられた。少女は男の方を見た。男は無表情で少女を見下ろしている。

「きみは、ドロ屋だな」

「…ドロヤ?」

少女は「ドロ屋」という言葉の意味がわからなかった。男は少女に向かって問い続けた。

「そうだ、ドロ屋だろ」

少女は男にたずねた。

「ドロヤってなに?」

「ここでドロを売って生活しているんだろ」

「うって…?」

少女は「売る」という言葉の意味もわからなかった。男はやや動揺した様子を見せ、少女にたずねた。

「きみ、言葉はわかるか。僕が何を言っているか通じているか」

「わかる」と少女はこたえた。

「そうか、それで、ドロ屋ではないのか。ここでドロを売って生活しているのではないのか」

男の質問に対し、少女はこたえた。

「『ドロヤ』はわからない。『うって』もわからない」

「そうか、まあいい。とにかくきみはドロをここに持ってきているんだな」

「そう」と少女はこたえた。

「ついてこい」と言って男は少女の腕を掴んだ。少女の腕はドロだらけで、男の手袋にドロがついた。男は少女から手を放し、両手袋を擦りあわせてドロを落とした。

「こっちだ」

男は向きを変え、少女に合図をして歩いた。少女は空になったバケツを持ち、男のあとをついていった。男は収集所を回り込み、そこにとめてあった車に乗り込んだ。

「乗るんだ」

男はそう言って車のドアを閉めた。ドアの外側に立つ少女は、その場から動かなかった。男は車の窓越しに少女を見た。少女は布の間から顔を出し、男を見ていた。男はドアを開け、車から降りた。そして車の反対側に回り込むと、「こっちだ」と少女を呼んだ。少女が男のいる方へ向かうと、男は助手席のドアを開けた。

「乗るんだ」

「乗る」という言葉を少女は知らなかったが、中に入れという意味だろうと思い、車に乗り込もうとした。

「待て、バケツは置いていけ」

少女は振り返って男の方を見た。男は少女の両手からバケツを取り足元に置いた。

「さあ乗れ」

男は手で合図した。少女が車に乗り込むと男はドアを閉め、回り込んで運転席に乗った。

少女と男を乗せた車は走り出した。

少女は車を知らなかった。動物の鳴き声のような音が聞こえると身の回りが揺れだし、身体がうしろに引きよせられたかと思うと目の前の景色がみるみる動いていった。少女は思った。これは移動しているのだ。今まで経験したことのない速さで移動している。少女はどこかで似たような光景を見たことがあると思った。それは少女の夢の中だった。夢の中で少女は、これと同じか、それぐらいの速さで移動していた。地上なのか、宙を飛んでいたのか、はっきりとはわからない。そんな夢で見た光景と、今目の前で起こっている景色の移動を重ね合わせていた。

男は少女に何も言わなかった。少女も何も言わなかった。車中はエンジン音だけが鳴り響き、ときおり大きく揺れた。男と少女を乗せた車は、ドロ収集所からどんどん離れていった。

男は一度車をとめると、ドアを開けて車から降りた。車の外に立っていた男は、しばらくするとまた車に乗り込み、エンジンをかけて走り出した。

空は少し暗くなっていた。もうドロ収集所や浜辺からかなり遠いところに来ていた。車は走り続ける。

「君は、どれぐらいドロ屋をやってるんだ」

少女は「ドロヤ」がドロをはこぶことだと思った。

「ずっと」

男は助手席の少女を見た。頭から布をまとう少女。背が低く、布の隙間から出た手や脚はやせ細っている。少女の手についたドロが、助手席のシートを汚していた。男はハンドルを握りながらフロントガラスの方へ向き直った。

「ずっととは、どれぐらいだ。何年ドロを運んでいる」

「ナンネン?」

少女はまた知らない言葉を耳にした。

「そもそも、きみは今いくつだ」

「…いくつ?」

少女の反応は男をいらだたせるものがあった。しかしそのいらだちは、少女自身に対して向けられたものではなかった。

「とにかく、ずっとなんだな」

男は声を落ち着かせて言った。

「そう、ずっと」と少女はこたえた。

「だったらドロのことはよく知っているな」

男はつぶやくように言った。少女の反応も確認しなかった。そして車は走り続けた。

空はもう暗くなり、月と星が出ている。車はフロントライトの明かりを上下に揺らしながら走る。明かりの向こう側、空の下には海が見えた。少女は一瞬、浜辺へ帰ってきたと思ったが、すぐに違うと気づいた。少女の住むあたりとは地形が異なっている。車は別の浜辺に来ていた。

男は車をとめた。エンジンを切ると、車内はしずかになった。男は車を降りて回り込み、助手席のドアを開けた。

「おりろ」

少女は車から外に出た。そこはたしかに浜辺だったが、少女の知る浜辺ではなかった。男は車のうしろへ回り、トランクから何かを取り出して戻ってきた。男の手には長い筒があった。

「あそこにいるものがわかるか」

男は指差した。男の指差す方には、何かが動いていた。一部が赤く光り、全体をぼんやりと照らしていた。それは人の形をしていた。二本の足を持ち、ひきずるようにゆっくりと動いている。

「ドロ」

少女は考えることなく、そう口にした。

「そうだ、ドロだ。きみにはここでドロを集めてもらう。ここにいるドロはあのような姿をしており、移動する。だからドロを集めるにはバケツではなく、こいつを使ってもらう。バケツに入れてもやつは逃げてしまうからね。ここのドロはきみが今まで集めていたドロと違うが、基本は同じだ。性質は変わらない。違うのは、やつが移動することと、形態を自由に変化させることだ。きみはやつが、つまりドロが形態変化することを知っているな?やつは固まったり柔らかくなったり、伸びたり縮んだりする。しかしやつを回収できる形態は決まっている。やつを回収できるときは、きみがいつもドロを集めているときと同じだ。寒い日にドロは固まり、回収できない。雨の日にドロは流れ出し、回収できない。ある一定の状態のときだけ、ドロは回収できる。そうだな?」

男は少女を見た。少女は何もこたえなかった。

「まず、僕が手本を見せるとしよう。今からやつを回収してくる。しかし、僕にはきみと違って決定的に足りない部分がある。やつを見てくれ」

少女は「やつ」と呼ばれた方を見た。一部分が赤く光り、ヒト型の全体をぼんやり照らした物体。二本の足を持ち、形こそ人と同じであれ、ひきずるように動く姿はあきらかに人間のそれと異なる。あれは間違いなく、ドロだ。毎日触れ、バケツに入れてはこんでいるドロだ。

「やつが今、どの状態かわかるか」

ジョウタイ、少女はドロを見た。ジョウタイ、今のドロは、

「少し前に雨が続いて、ぬかるんでいたから、その日の朝はやめた。昼になってからドロをはこびはじめた」

「どっちだ」

男は長い筒を左手で支え、右手でダイヤルを調整しながら少女にたずねた。

「どっち?」と少女はこたえた。

「朝か、昼か!!」

男は叫びながら「やつ」目がけて走り出した。その手にかかえた筒の先はまっすぐ「やつ」に向けられていた。「やつ」は赤い目を男の方へ向けるとヒト型だった体は花が咲くように拡がり向かってくる男の全身を包み込むように襲いかかった。少女は目の前を通り過ぎている状況に追いつくよりも先に男に向かって「朝!!」と叫ぶと男は筒の先を「やつ」の赤い目に突き刺し今そこに見えていた花がしぼむように筒に吸い込まれていった。「やつ」は目の前から消えた。

男は筒をかかえ、少女の方へ歩きながら言った。

「この筒はね、やつの状態にダイヤルを合わせれば回収できる。しかし僕にはね、やつの状態が判断つかないんだよ。僕だけでなく、多くの兵士がそうだ。ところできみ、名前はなんというんだ」

続く [4397字]